9月 1日  聖霊降臨節第16主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 7:53 〜 8:11
説  教  「行きなさい」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌    3 162 411  78
 
きょうのみことばは、はじめて聖書を読んだころからずっとわたしも気になっているところです。ヨハネによる福音書8章1節以下のところです。皆さんは、いかがでしょうか。
やはり気になってしかたないというか、むしろとても心惹かれるところであるといったほうがいいかもしれません。ある意味で、イエスさまとはじめて出会ったように思えてくるのです。イエスさまってなんてすばらしいんだろうなと思わされたのでした。イエスさまのお姿がほんとうにもう一歩、そしてもう一歩より身近になったように思えたのでした。
前田護郎訳ではこのようになっていました。「彼らがこういったのは、イエスを試みて、訴える口実を得るためであった。しかしイエスはかがんで指で地にものを書かれた。彼らがしつこくたずねていると、身を起こしていわれた、「あなた方の中で罪のないものがまず彼女に石を投げよ」と。そしてふたたびかがんで地にものを書いておられた。彼らはそれを聞いて、老人をはじめとして、ひとりまたひとりと去って行き、イエスだけが残った。真ん中の女はそのままであった。イエスは身を起こして彼女にいわれた、「女の方、あの人たちはどこに行ったか。だれもあなたを罰しなかったか」と。彼女はいった、「だれもございません、主よ」と。イエスはいわれた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはまちがいはしないように」と。」(前田護郎訳『新約聖書』ヨハネ福音書8:6-11)
〔なお、ここの前田護郎訳にはこのような訳註が付されていました。「この部分(7・53〜8・11)はよい写本に欠けているが、イエスの精神を伝える貴重な資料であることはほかの部分とかわりない。」(前田護郎訳『新約聖書』ヨハネ福音書7:53-8:11訳註)〕
このようにイエスさまはついに彼女を審(さば)きたまわなかったのです。このとき彼女はイエスさまの愛の心、温容な態度(「寛恕」(かんじょ))に接し、イエスさまの愛、その寛大な心に触れ、おおいに感激し、ついに心から罪を悔い改めたことでありましょう。このようにわたしたちはここから推察することができるのではないでしょうか。
このように考えることはあまりにも単純な見方なのでしょうか。ある意味で確かにそうなのかもしれません。けれども、やはりわたしたちにはそのように思えてならないのです。
ほんとうに人を愛すること、ほんとうに人をゆるすことの大切さを、ここの中でイエスさまはわたしたちに身をもって教えておられるのではないでしょうか。
イエスさまの十字架の愛には、イエスさまの十字架のゆるしには、きょうのみことばの中のイエスさまの愛の心と人の罪をゆるす心が大いに含まれているのではないでしょうか。
わたしたちは神さまのみ前にはいずれも大差のない罪人ではないでしょうか。イエスさまは安易には人を審(さば)かれませんでした。むしろ人をゆるすことに、愛することに集中されたのではないでしょうか。あのゴルゴタの丘の十字架のイエスさまのお姿をわたしたちももっともっと思いみるべきなのではないでしょうか(マタイによる福音書27章、マルコによる福音書15章、ルカによる福音書23章、ヨハネによる福音書19章)。わたしたちの救い主イエスさまはわたしたちのことを愛してくださいます。ゆるしてくださいます
日本基督教団郡山教会
〒963-8005 郡山市清水台2丁目6-4
Tel:024-922-1687