10月20日  聖霊降臨節第23主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 9:1 〜 12
説  教  「神の業がこの人に現れるために」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌  200 394 405  
 
「ちいさいひつじが」という讃美歌は、ちいさなこどもたちだけではなく、わたしたちみんなの歌のように思うのです。おとなもこどももみんなの心の歌のように思うのです。
特にその歌詞の3節、4節などを歌っていると、ほんとうにそうだなと思ってしまいます。 「……なさけのふかい 羊(ひつじ)かいは、 この子羊(こひつじ)の あとをたずね、 とおくの山やま 谷そこまで、 まいごの羊(ひつじ)を さがしました。
とうとうやさしい  羊(ひつじ)かいは、 まいごの羊(ひつじ)を みつけました。 だかれてかえる この羊(ひつじ)は、 よろこばしさに おどりました。」
(2002年版『こどもさんびか』55番3,4節、『讃美歌21』200番3,4節)
ほんとうにそうなのです。このうたはわたしたちの歌、わたしたちの救いの歌なのです。
さて、きょうのみことば、ヨハネによる福音書9章のみことばを読みますとき、わたしはいつも思い出すことがあります。それはわたしの友人の言葉なのですが、その友人には障害をもった兄弟がいまして、あるとき、「神の業(わざ)がこの人に現れるために」ということばに出会ってはじめて自分と兄弟との意味を見いだすことができたのだと話されたのです。いままでその友人はこの兄弟のことをあまりというか、ほとんど話さなかったので、ほんとうに何と応えていいのか分かりませんでした。いまもあのときのことが忘れられません。
きょうのみことばを読むときも、どうしても「神の業(わざ)がこの人に現れるために」というイエスさまのこのみことばが、またこのように語った友人のことが忘れることができません。
このみことばは生まれつき目の見えない人についての「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」という弟子たちの質問が先にあります。この質問への主(しゅ)イエスさまの答えのおことばでした。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
イエスさまは、それから、この目の見えない人の目に泥をぬり、シロアムの池へ行って洗えと言われたのです。そこでこの人の目が開いたのでした。この人は、このあと、なおしてくれた人を主(しゅ)と心から信じる人に変えられることになります(ヨハネ9章)。
以前に触れましたが、前田護郎訳『新約聖書』の訳註に、このような驚きの一文がありました。「……イエスは人の心身の弱さのゆえにそれを救おうとして恥辱の死を目ざした。その死を栄光というヨハネ的な意味(17・1以下)で、ここの「神のわざ」を解すべきである。」(前田護郎訳『新約聖書』ヨハネ福音書9:2訳註)と。
イエスさまの愛の言葉も、イエスさまの愛のわざも、このようにみな、イエスさまの十字架の死へとつながっているということです。イエスさまの愛も、愛のわざも、十字架の贖(あがな)いへとつながっています。しかもその死は恥辱の死であったというのです。
イエスさまは十字架の死に至るまでこの人のことを愛し抜かれます。そしてわたしたちのことをもイエスさまは十字架の死に至るまで愛し抜かれるのです。感謝しかありません。
日本基督教団郡山教会
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