1月26日  降誕節第5主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 11: 38 〜 57
説  教  「神の栄光」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌    7 451 458   
 
わたしたちには苦しみ悩み、泣き、悲しみに心がふさぐとき思い出す讃美歌があります。「なやむものよ とーくたちーて」というあの讃美歌です。
「なやむものよ、とく立ちて、 めぐみの座(ざ)にきたれや。 
天(てん)のちからにいやしえぬ かなしみは地(ち)にあらじ。
さちなき身のなぐさめや、くやめる身ののぞみや。
天のちからにいやしえぬ かなしみは地にあらじ。
見よ、いのちのましみずの み座より湧(わ)きいずるを。
天のちからにいやしえぬ かなしみは地にあらじ。」
(1954年版『讃美歌』399番1,2,3節)
さて、マルタとマリア、兄弟ラザロをイエスさまはどんなにか愛されたことでしょうか。 兄弟ラザロのためにイエスさまがベタニアに来られたと聞いたとき、マルタは居ても立っても居られず、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とその率直な気持ちを言葉に言い表しています(21節)。
愛する者を失う悲しみに、いわば泣き言のようにも思われるようなことばをもってマルタはイエスさまに正直に訴えかけています。けれどもマルタは悲しみと絶望の淵にありながらも、イエスさまへのまったき信頼を失っていませんでした。
イエスさまはこのような悲しみのさ中にありますマルタに向かって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」とはっきりと宣言されます(25節)。 ここにマルタは復活の命の信仰を与えられます。深い慰めと希望を与えられます(26、27節)。
いっぽう、マリアにはマルタからイエスさまの復活の命のみことばの真理はまだはっきりとは伝えられていなかったようです。そのマリアからも、さきほどのマルタと同じ悲しみのことばがイエスさまに向かって投げかけられています。やはりマリアもイエスさまに向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と悲しみの気持ちをぜんぶ正直にことばに言い表しています(32節)。
イエスさまはマルタ、マリアたちが泣いて訴えかけるあいつぐ悲しみのことばに深く心を動かされます(33節)。そして「イエスは涙を流された」のです(35節)。ここのイエスさまが「心に憤りを憶え、興奮して」(33節)と訳されるギリシャ語はほんとうに強い意味のことばです。イエスさまの怒りと悲しみの激しい心の動きをここに率直に表現しています。イエスさまはまたも心に嘆き、激しい苦しみをもってラザロの墓に向かわれるのでした(38節)。このような中において、イエスさまは「神の栄光」について語られるのでした。「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)それは神さまの力によって、死の力から解放するみことばです。イエスさまの力です。イエスさまのみことばの力です。聖書のマルタやマリアだけでなく、昔も今もどこにいても、いかなる時もわたしたちも「このことを信じるか」とイエスさまから優しく、強く語りかけられています。
日本基督教団郡山教会
〒963-8005 郡山市清水台2丁目6-4
Tel:024-922-1687