9月22日  聖霊降臨節第19主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 8:31 〜 38
説  教  「愛と真理」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌   51 418 487
 
きょうの説教題の「愛と真理」は『讃美歌21』の「聞けよ、愛と真理の」という讃美歌の歌詞からつけられたものです。
けれども、やはりもともとの1954年版の『讃美歌』の歌詞のほうがどうも心にしっくりといたしますので、今回もこちらのほうから引用させていただきます。
「きけや愛の言葉を、もろ国人(くにびと)らの  罪とがをのぞく 主(しゅ)の御言葉(みことば)を、 主のみことばを、  やがて時は来(きた)らん、 神のみ光(ひかり)の  普(あまね)く世(よ)をてらす あしたは来(きた)らん。
見(み)よや救(すく)いの君(きみ)を、 世(よ)のため悩(なや)みて  あがないの道を 開きしイエスを。 ひらきしイエスを。  やがて時は来(きた)らん、 神のみ光(ひかり)の  普(あまね)く世(よ)をてらす あしたは来(きた)らん。……」(1954年版『讃美歌』453番1,2節)。
そうです。神さまの、主(しゅ)イエスさまの「愛の言葉」はわたしたちが考えるところを遥(はる)かに超えるものがあるのです。すさまじい愛の力、救いの力があるのです。
きょうのヨハネによる福音書のみことばも、このことをいっているのではないでしょうか。
このこと、神さまの愛の力、救いの力、主イエスさまの愛の力、救いの力を信じればいいのです。すべてはここから始まります。神さまを信じ、イエスさまを信じるところからまことの信仰は始まります。もっとも簡単なようで、もっとも難しいことなのかもしれません。しかし、イエスさまを信じれば救われます。主イエスさまはこのようにいわれます。
「イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」……」(ヨハネ8:31,32)
実は、わたしはここの続きの9章はじめの前田護郎訳の訳註を見てとても考えさせられました。考えさせられたというよりも正直ほんとうにびっくりいたしました。それは次のヨハネ福音書9章のイエスさまのシロアムの池にまつわる目の不自由な人へのいやしの記事について付された訳註になります。少し先走るようですが、このような驚きの一文です。
「……イエスは人の心身の弱さのゆえにそれを救おうとして恥辱の死を目ざした。その死を栄光というヨハネ的な意味(17・1以下)で、ここの「神のわざ」を解すべきである。」(前田護郎訳『新約聖書』ヨハネ福音書9:2訳註) 特に「イエスは人の心身の弱さのゆえにそれを救おうとして恥辱の死を目ざした」というところです。さらに、「その死を栄光というヨハネ的な意味(17・1以下)で、ここの「神のわざ」を解すべきである」というところです。そうです。イエスさまの愛の言葉も、イエスさまの愛のわざも、みなイエスさまの十字架の死につながっているのです。イエスさまの十字架の贖(あがな)いにつながっています。しかもその死は恥辱の死であったというのです。このことはわたしたちと大いに関係があります。主イエスさまは実に恥辱の十字架の死をもってわたしたちを愛し抜かれたのです。
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