1月 5日 降誕節第2主日礼拝
聖 書 ルカによる福音書 2:36 〜 52
説 教 「幼子イエス」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌 249 278 265 78
ルカによる福音書2章の後半には、年老いたシメオンとアンナが登場します。ここで年老いたシメオンとアンナに神さまから慰めと希望の光が与えられています。シメオンについて、「この人は正しく、つつしみ深く、イスラエルの慰めを待ち望み、聖霊がのぞんでいた」との前田護郎訳『新約聖書』の訳語を見た時、わたしはとてもこころ惹かれました。
いまの世の中ではこのような「正しさ」や「つつしみ」ということはあまり目立たないことかもしれません。しかし、人が「正しく、つつしみ深く」あることの中には信仰者としてのわたしたちの生き方がとてもよく言い表わされ、示されているように思えたのです。
前半の「正しく、つつしみ深く」あることと、後半の「イスラエルの慰めを待ち望み、聖霊がのぞんでいた」ということ、このふたつのことが並んで結びつけられています。前半の「正しく、つつしみ深く」あることと、後半の「イスラエルの慰めを待ち望み、聖霊がのぞんでいた」ということ、このふたつのこと、どちらも、「信仰深い」という意味です。
神さまの御前(みまえ)に生きる人間としての在(あ)り方、生き方をよく表現した言葉だと思われます。神さまの御前にある、神さまの御前に生きる人の姿です。シメオンとアンナ、二人ともこうした、神さまの御前に生きる人間の代表のように思われます。
アンナについても「宮を離れず、夜昼断食と祈りとでお勤めしていた」と前田訳は訳します。この訳文はどちらかというとさりげないさらりとした翻訳ですが、この年老いた女性、アンナがその生涯のほとんどの時間をかけて、どれほど神さまを真剣に信じ、神さまに従う生活をしてきたのかということ、信仰の歩み、生涯がうかがえる訳文だと思います。
シメオンとアンナ、二人とも年老いていましたが、どちらも信仰深く、心においてもまた行いにおいても、どちらもどんなにか純粋な、敬虔な生き方であったかが想像されます。
神さまの御子(みこ)イエス・キリストの誕生によって、このように静かに、そして忍耐強く、神さまの御前に生きてきた彼らに初めて、イスラエルの民がずっと昔から待ちに待っていたまことの慰めと希望の光、救いの光がいまはっきりと与えられたのです。
「イスラエルの慰め」とは待ち望んでいた救い主キリストが来られることについての旧約聖書の中でしばしば使われる言葉です(イザヤ書40:1-2,49:13等)。
シメオンもアンナもまことにイスラエルの慰めを得たのでした。
シメオンの話しも、アンナの話しも、どちらもエルサレムの神殿の中での出来事として描かれますが、建物としての神殿、宮にもまして、いま神さまの独り子である幼子イエスさまにお会いしている、ここにはっきりと神さまがおられる、神さまがここにいましたもうことが(神さまの臨在が)幼子イエス・キリストにおいて示されたのでした。シメオンとアンナ、この二人に、はっきりと目の前に神さまの御子が示されます。このことはわたしたちにとっても決して他人ごとではありません。生きて行く意味がなかなか見いだせず、心の奥深いところで深く嘆き、苦しみ、悩むわたしたちです。けれども、希望の光、救いの光である幼子イエスさまが、神さまの愛によってわたしたちに確かに与えられたのです。
日本基督教団郡山教会
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