6月16日  聖霊降臨節第5主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書5:31-47
説  教  「イエスについての証し」 小峰 擁 牧師
>讃 美 歌   60 543 459
 
説教要旨
大戦中、キリストの福音を隣邦大陸の人々に伝えようとして熱河伝道に勤しんだ沢崎堅造が、次男新(あらた)君の死の悲嘆のどん底の中にあって、うたい出した歌があります。
「旅に出でし時 母に抱かれて 我を送りたりき 我は顧みざりき そはキリストの道をゆくものなれば(中略) 蒙古伝道―それは余りにも重々しき言葉 小さき旅に 小さき死が 供えられたり(中略) あまりにも奇(くす)しき 厳しき 神の御旨(みむね)よ 粛然として襟を正すのみ 伝道とは 天の業(わざ)なり キリストと共に キリストの中に ああキリストに包まれて 何処までも 何時にても 何ごとが起きても 心安けし (後略)」(飯沼二郎編『沢崎堅造の信仰と生涯』未来社刊)
さて、ヨハネによる福音書5章19,30節に、イエスさまの印象的なおことばがあります。
そしてきょうのみことばの31節以下もそうなのです。神さまとイエスさまの関係がその基(もとい)となっています。神さまとイエスさまの関係は、比類のない父と子の関係です。それゆえ、御子(みこ)は御父(みちち)のみこころを完全に知り、そのみわざを完全に成し遂げられます。御子は御父の愛を現わしておられます。この比類のない愛の関係を離れて、イエスさまのみわざは一つも行われなかったのです。イエスさまは神さまと等しいかたでありながら、ご自分では何もすることがおできにならないといわれるのです。イエスさまはただ聞くとおりにさばきを行われます。そして、イエスさまはここでいわれるようにご自分のためには何も主張されず、証言することもなさらないのです(村瀬俊夫著『聖書注解 ヨハネの福音書』いのちのことば社刊)。
きょうのみことばにおいても、このことがしだいに明らかにされているといっていいでありましょう。ユダヤの律法によると、ふたりまたは三人の証人が必要であって、自分自身のためにする証言は無効であるとされます(申命記19:15)。ここでイエスさまがいわれた証人とは、イエスさまを遣(つか)わされた天の父なる神さまご自身のことです。
きょうのみことばのところは、わたしたちにとってよくわかったようで、実はよくわからないところなのかもしれません。簡単なようで、とても難しく感じるかもしれません。
しかし、次のイエスさまのおことばは、わたしたちもよくわかるのではないでしょうか。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)
わたしたちの救い主(すくいぬし)イエス・キリスト。このおかただけをわたしたちはいつまでも、どこまでも見つめていればいいのです。「聖書読みの聖書知らず」にならないために。このおかたをいつも見つめていれば大丈夫。このみことばをわたしたちの心の中に、このおかたをわたしたちの胸の奥に、つねに秘めていれば大丈夫です。そうなのです。
むしろ逆に、このおかたから、わたしたちの救い主、十字架と復活の主イエス・キリストから、わたしたちはいつも見つめられています。愛のまなざしをもってイエスさまはわたしたちをいつまでも、どこまでも見つめていてくださいます。まことに感謝であります。
日本基督教団郡山教会
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