10月 6日  聖霊降臨節第21主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 8:48 〜 59
説  教  「アブラハムが生まれる前からわたしはいる」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌   58 361 425  78
 
わたしはときどき思い出す詩があります。八木重吉の「むつかしい路(みち)もありましょう」という詩です。
「むつかしい路(みち)もありましょう 
むつかしい路(みち)もありましょう
しかしここに確かな私にも出来る路がある
救ってくださると信じ 私をなげだします」(八木重吉『貧しき信徒』より)
わたしも、悩むとき、この詩を思い出すようにしています。
そうすると、イエスさまがそばにいてくださるように思えるからです。慰めてくださるように思えてくるからです。きょうのみことばも、そんな気持ち、そんな心で読みなおすとき、神さまに祈ってゆくとき、しだいにわかってくるように思えてきます。
「イエスはいわれた、「ほんとうにいう、アブラハムが生まれる前からわたしはいる」と。」(前田護郎訳『新約聖書』ヨハネ福音書8章58節)
ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネも、イエスさまのことをこのように証(あか)しをしたと記します。
「『わたしの後に来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」と(ヨハネによる福音書1:15)。
きょうのみことばも、イエスさまは洗礼者ヨハネ以前だけでなく、創造以前からイエスさまはおられるのだということを、わたしたちに証しするのです。
そして福音書記者ヨハネも、このことを何とかしてわたしたちに伝えようとこのヨハネ福音書を書いているのでした(ヨハネによる福音書21:24,25)。
反対者もたくさんいました。そういう意味では、きょうのヨハネ福音書8章にもこのようにイエスさまに反対する人々がたくさん登場していました。この人たちは、イエスさまがアブラハムの生まれる前から、つまり創造以前からおられるのだということがとても我慢することができなかったのでした。それは、きっと自分に罪があるということを知らず、あるいは知ろうともしなかったからではないでしょうか。このことはわたしたちにも通ずることではないでしょうか。わたしに罪があるということ、人間の罪認識ということは、神さまを知る神認識とともに、わたしたちの聖書の信仰の出発点なのではないでしょうか。
イエスさましばしば「わたしはある」といわれます(ヨハネ4:26;8:24,28,58;13:19;18:5)。イエスさまは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8:24)といわれるのです。このようにイエスさまは罪に悩み苦しむ人々に罪のゆるしの福音(ふくいん)、イエスさまの尊い十字架の救いの喜びのおとずれを告げるお方でありました。この点から、きょうのみことばを読みなおすとき、イエスさまがおっしゃっておられることの意味がわたしたちにもよくわかってまいります。イエスさまは、罪に苦しみ、悩む人の友としてわたしたちのそば近くにいてくださいます。
日本基督教団郡山教会
〒963-8005 郡山市清水台2丁目6-4
Tel:024-922-1687