3月16日  受難節第2主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 13: 18 〜 30
説  教  「わたしを受け入れる人」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌  297 395 487  
 
「イェス、イェス」という讃美歌はその歌詞、曲とともにわたしたちの心に静かな河の流れのちいさな波のように、さざなみのように心の中にこだましてくるように思われます。
「イェス、イェス、 主(しゅ)の愛で 私たち 満たしてください。  
弟子たちの足、 静かに洗い ひとに仕える 主よ。  
イェス、イェス、 主(しゅ)の愛で 私たち 満たしてください。 …… 
主の愛された すべてのひとが 私の隣り人(となりびと)。
イェス、イェス、 主(しゅ)の愛で 私たち 満たしてください。  
しもべのように 互いに仕え イェスと共に 歩もう。
イェス、イェス、 主(しゅ)の愛で 私たち 満たしてください。」
『讃美歌21』487番1,3,4節)
主(しゅ)イエスさまは弟子たちの足を洗われたとき、このように言われます。 (文語訳ではまことに含蓄深く次のように訳します。)
「我(われ)は主(しゅ)また師(し)なるに、尚(なお)なんぢらの足を洗ひたれば、汝(なんじ)らも互(たがい)に足を洗ふべきなり。われ汝らに模範を示せり、わが為(な)ししごとく、汝らも為さんためなり。誠(まこと)にまことに汝らに告ぐ、僕(しもべ)はその主よりも大(おおい)ならず、遣(つかわ)されたる者は之(これ)を遣す者よりも大(おおい)ならず。汝等(なんじら)これらの事を知りて之(これ)を行は(おこなわ)ば幸福(さいわい)なり。」(文語訳、ヨハネ伝13:14-17)
ここで特に注目されるのはイエスさまが「幸福(さいわい)なり」とおっしゃったということではないでしょうか。前田護郎氏はここのところの訳註にこのようなことを記します。「マタイ5・3以下のさいわいと相通ずる。この世で僕(しもべ)であることのうちに示される真のさいわいである。僕になってついに死した神の子に従うことは父なる神に迎えられるさいわいと結びつく。」(前田護郎訳『新約聖書』ヨハネ福音書13:17訳註)ほんとうにわたしたちの幸福、さいわいとはどのようなことなのでしょうか。イエスさまが言われているのは、どうもこの世におけるたくさんのしあわせなどということではないようです。わたしたちのほんとうのしあわせ、さいわいのありかについて、改めて考えさせられます。
「この世で僕(しもべ)であることのうちに示される真のさいわいである。僕になってついに死した神の子に従うことは父なる神に迎えられるさいわいと結びつく。」(前田護郎氏)ということ。わたしたちも、いまいちど自分の生き方を考えさせられます。ここで弟子たちの足を洗われるイエスさまに、わたしたちがどれだけ近いかということです。わたしたちの生き方が、わたしたちの生きる方向性がイエスさまのように、弟子たちの足を洗われるイエスさまのようになっているかということです。イエスさまが自ら模範を示されたように、「この世で僕(しもべ)であることのうちに示される真のさいわい」ということの中にはわたしたちの生き方の根本、その方向性、生きる方向性が示されているのではないでしょうか。「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国(てんこく)はその人のものなり。」(文語訳、マタイ伝5:3)です。イエスさまからこのように呼びかけられています。